KOROGARO / kengo sato / 佐藤 研吾

SDレビューを終えて、「限定性の美学」という言葉を投げてみる

今、この文章を東京から上海へ行くジェット機の中で書き出している。近頃、こんなわざわざ旅情の趣を醸し出そうとする書き出しの文を懲りもせずに幾度も書いてしまっているが、おそらくは大して意図せずに自分自身の活動の節目として、そのような旅路が具合良く置かれているのだろうと思い込んでいる。あるいは旅という身体の大きな移動の時期に合わせて、自分の活動の波長を整えているの感もある。それはさておき、今向かっている上海は実はただのトランジットでしかなく、もうすぐ浦東空港に降り着き、別の空港である虹橋へとバスで移動して、虹橋から雲南省の昆明へ飛び、空港内で夜を明かして、インド・西ベンガル州のコルカタへと向かう旅程になっている。何とも恐ろしい道のりである。待ち時間を含めておよそ30時間。当然、最安の航空チケットを探した結果なのであるが、ともかく、携帯電話もロクにつながらずに30時間も浮き世状態というのは、文字を書くにはなかなか都合が良いのだ。

コルカタへ向かう目的は勿論、そこからさらに列車で北西に移動したところにある町シャンティニケタンでの家作りに向かうためである。今回、SDレビューに応募をしてみた〈Project in Santiniketan/インド・シャンティニケタンに同志を募って家を作りに行く〉は、実のところ、これからが正念場だと言ってよい。すでに現地では、コンクリート+レンガの主要躯体が建ち上がっており、施主が気ままに、そして確かなこだわりを持って室内に木製家具や照明、そしていささかの美術品を設えはじめているようである。ここ数日、ひっきりなしに施主から半ば出来上がりはじめている内観写真が送られてきて、それらの写真一枚一枚を眺めた私は一喜一憂して気を揉んでいる。が、そうした私と施主の間の、それぞれが追い求める家の姿の差異、相違にむしろ面白さと可能性を感じ、これから現場で待ち受けるであろうある種の“格闘”の展開にこの上ない期待を抱いている。

SDビューの審査員の方が『SD2017』のどこかで、おそらくはそんな設計者と施主を始めとする諸相手との独自なやりとりが一般的でないものを作っている、と評していた。しかしよく考えてみれば、それは至極当然の理と言うべきで、むしろ一体どうすれば「一般的」というモノを作ることができるのか自分には見当がつかない。もちろん創作というものには、ある種の普遍を求めるプロトタイピングあるいは原理的趣向は欠かせないとは思う。けれども一方で、個人性というべきか、一片のこだわりもない人間による、主体性なきモノ作りなどはあり得ないだろうとも考える。主体性なき創作とはつまるところ、人格というモノの隠蔽に他ならないからだ。

ここで、肩肘を張らない、謂わば「限定性の美学」という言葉を一旦投げてみたい。

この〈Project in Santiniketan〉では、作り手である自分自身、さらには“同志”を含めた創作主体と、作られるモノ・場所との間にある距離、あるいはその隔たり自体を主題の中核に据えている。つまり、自分自身の経験と行動、そして身体の限定性に自覚的になり、そこに創作の出発点を見ようとしている。自分の力量の限定性を見据えるからこそ、自分の身を置く環境、歴史の力なるものを借りようとするのであり、さらには“同志”の力を借りるのだ。

限定から始まる創作、というものを考えてみれば、それは『SD2017』の第2特集のテーマ「アドホシズム」につながるものでもあるだろう。私見にすぎないが、「アドホシズム」という創作姿勢に、場当たりや即興といった形容を当てるべきではない。肝要なのは、場当たりにも見えるモノ作りの前提、土台に、限られた身体、限られた環境と思考というものがある、ということではないだろうか。

いくらでも思考が拡がり、情報が拡散していく現代において、いかにして、どこに限定性を据えるのか。引き続き、とりあえずの私の課題である。

 

2017年12月9日

佐藤 研吾(In-Field Studio)

 

(【SDレビュー2017 受賞者のことば】〈Project in Santiniketan/インド・シャンティニケタンに同志を募って家を作りに行く〉/佐藤研吾(鹿島賞))

 

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