KOROGARO / kengo sato / 佐藤 研吾

“0-ZERO- MEETING” IN INDIA

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“0-ZERO- MEETING” IN INDIA

On October 20, 2015, I visited six-sided arbor,”Kanran-tei” made by Tenshin(Kakuzo) Okakura in Itsuura-Bay, Japan. He sometimes meditated in this pavillion late in his life.
Okakura researched Japanese traditional art and traveled to India, China, and the West.
“0-ZERO- MEETING” will be held in India.
2015年10月20日、日本茨城県の五浦にある天心六角堂を訪問した。岡倉天心はこの亭を観瀾亭(かんらんてい)と呼んでいたという。東側に望める大海の波の音を聴くための居処としてこの名を冠していたようだ。横浜生まれの、外国と日本を幾度も往来した国際人・岡倉天心にとって然るべき棲み家であったようである。2011年の東日本大震災の大津波で消失したが、数年前創建当初の姿で再建されたという。天心がこの地へ訪れたのは東京美術学校の要職を辞し、新たに日本美術院を創設した晩年の時期であり、その後ボストン美術館などの海外各所とこの地を往復しながらの生活を送った。しかし、日本美術院は当時の日本美術における日本画は横山大観や下村観山らの弟子筋の奮闘をもってしても勢力的には衰退の径を辿らざるを得なかった。当時の日本美術院と東京芸術学校の捻れ、思想的乖離は、明らかに近代日本が抱えざるを得なかった矛盾であり、もちろんこの乖離、文化的接木の状況の良し悪しは別として、現代の日本にまで続いているのは確かである。ましては、日本に限らずおおよその文化圏においてその捻れた混沌の状況が生まれているでもあろう。
天心の思想および活動は、当時のインドのR.V.タゴールやチャンドラ・ボースが主導した独立運動と強く共鳴した。特にタゴールの、民族主義に限らない全人類的な視野を有しての自立の思想と、天心が描こうとした、大小関わらずの各文化圏それぞれの文化的独立の構想は極めて同じ地平を見据えていたとも感じられる。タゴールが創ったベンガルスクールは当時の官職に就くためだけの英国式教育を進めていた国内の学校教育制度に抗して、森の中に創立された学校である。天心の日本美術院設立は、西欧画および西欧式近代社会の制度普及を推進する国内の大勢の中で、自分達の持つべき表現を模索した結果である。
西欧に抗うだけモノであった、という短絡な解釈だけでは読み取れきれない表現と、運動の蓄積が彼等にはある。 時代は違えど、彼等先人の活動は参照するべき事柄である。
そのような関心を自分の中で描きつつ、先の通り、天心の六角堂を訪れ、スケッチを試み、そして飛躍するが、「〇の会」なる会合、学校をインドの地で興すことができればと考えている。時代という大局が何処に向かおうとしていて、その中で微小な自分達が何をすべきか、私自身にとっては異郷であり、けれども近しい場において活動を続けたい。
21,Oct,2015
Kengo Sato