KOROGARO / kengo sato / 佐藤 研吾

151023 “0-ZERO- MEETING”2

岡倉天心の試み、つまり西洋から東洋への一方向的な影響関係が、そのままの図式で芸術および文化の伝播過程においても当てはまるという当時の一般の認識に対して異を強く唱えること、そしてアジアにおける諸文化の固有性を認めた上でそれぞれの歴史的な相関関係および複合的な並存の系を明らかにすること。天心は最初の英文著書「東洋の理想」において日本を基軸に据えた宣言文とも言える文明論を展開している。 「東洋の理想」はインド・カルカッタの、インド独立運動の只中の地で書かれ、アイルランド出身の現地の女性編集者シスター・ニヴェディタの助力によって英国出版社より出版された。「東洋の理想」の言説がカルカッタのその運動に同調し、強い刺激を与えたことは間違いないであろうが、一方で仏教を志向する天心と、近代インドにおけるヒンドゥー教再興を目指すカルカッタの諸氏との間にはいささかの認識の違いがあったようにも思える。とはいえ、それぞれが選択的に双方の資質を掘り出し、天心はインドおよび中国をはじめとするアジア諸地域の文化統合体として日本を規定し、一方で天心の書作「日本の覚醒」の言説、および当時の日本の日露戦争勝利を発端とした国際的台頭の姿を一つの根拠としてインド独立運動は言説的強化と運動の拡大を進めていた。

カルカッタでの独立運動の中で特に急進的なナショナリストグループのリーダーであったオーロビンド・ゴーシュという活動家がいた。彼はカルカッタ出身でイングランド・ケンブリッジ大学にて学問を学んだ後に、カルカッタに帰国し独立運動に加わった。オーロビンドはその後、政治から霊性的実践の方へとシフトし、のちにインド南部のベンガル湾沿いのテェンナイ(マドラス)近くにオーロビルという宗教都市を生み出す。小都市オーロビルの実質的主導者はオーロビンドと後年共に活動を広げたパリ生まれのミラ・アルファッサ(通称マザー)である。(オーロビルができたのは1968年とされている。)岡本佳子氏の研究によれば、オーロビンドの政治活動中の言説においても日本の事例が度々挙げられており、そこには天心の著作および文言からの強い影響が指摘されるという。
オーロビンドはカルカッタでの独立運動に参加する前に、イギリスより帰国後、西インドのグジャラート州古都バローダの地に駐在していた。そこでは藩主の斡旋で語学の教授や役所の住宅測量係などの庶務を担当していたという。現在、我々が活動の拠点を置いているVadodara Design Academyはバローダの町からはいささか離れた郊外、荒地の只中にあるが、今のバローダ中心地もそんな庶務でありふれた町であることは変わらないかもしれない。オーロビンドは、そんなバローダ駐在中に一人のヨギよりヨガを習得し始めたと言われている。
新都市オーロビルは現在、環境エコビレッジ等として世界中に広く知られている。ヒンドゥー原理・哲学を基底に置いた規律と域内整備なされている。都市のマスタープランは球形のメディテーション施設を中心とする螺旋形を描いた明らかにコスモロジーの体現である。そのデザインは決して優れたものとは見受けられないが、けれどもコスモロジー、あるいは精神哲学および宗教的神話体系とデザインの間を巡る問題としてはとても面白い。オーロビルがインド国内においてどのようにして知られているのかは私はまだ分かっていない。
私が数年前訪れた、パウロ・ソレリによるアメリカ・アリゾナ州のアルコサンティとオーロビルは姉妹都市の関係でもある。アルコサンティもまたパウロ・ソレリという超強力な推進者によって70年代頃生み出された新都市であり、当時のアメリカ特にアリゾナにおけるアーバンスプロールと自動車社会への急激な移行の都市問題に対するソレリの具体的実践であった。
イタリア人であったパウロ・ソレリはアリゾナの、フランク・ロイド・ライトのタリアセン・ウェストにおいて2年程学び、結局喧嘩別れをして、一旦はアリゾナの町へ下りた。どちらも明らかに我が強そうな彼等であるから当然でもあろうが、その後ソレリはアリゾナ郊外の砂漠地帯においてアルコサンティの建設を開始する。
ライトのタリアセン・ウェストは山の裾野に平たく置かれた建築であり、ソレリのアルコサンティは山(丘)の上の崖沿いに建てられている。どちらもそれぞれの自然あるいは大地に対する建築の扱い方を示し表しているのが興味深い。
アルコサンティが前提とするのはパウロ・ソレリのドローイングと言説のみであり、それもまた一つの宗教都市に近いものであった。建築家=アーキテクトのある種の極北を示してもいる。また、その都市に所属する人間たちの自給自足的ライフスタイルと都市建築の形成が一体のものとして志向される場であった。
どちらの指導者も既にこの世を去ったが、その場所は未だ生き続けている。だが、その姿は異なるモノなのだろう。
23,Oct,2015
Kengo Sato