KOROGARO / kengo sato / 佐藤 研吾

160110「第一回 日本-インド-アジアをめぐる学校設立研究会」講義録

2015年12月26日の「第一回 日本-インド-アジアをめぐる学校設立研究会」での発表記録。

[1]はじめに

インド・バローダで行う3月のデザイン・ワークショップ・学校の概要案内と、なぜこのような学校をやるのか、始めるのかを説明したいと思います。スタートしたばかりなので当然ながら小さい会ではありますが、共有できる場として本日の事前説明会及び、研究会を発足・企画いたしました。本日の発表者としては私佐藤研吾と、中村晃朗さん、そして岡本佳子さんよりコメントをいただきます。
中村さんは現在インド・ナーランダ大学の修士課程に在籍しています。ナーランダ大学は紀元5世紀にかつてあった大学ですが、近年インド政府主導で新ナーランダ大学が設立し、中村さんはその第1期生としていらっしゃる方です。新ナーランダ大学のキャンパス計画はインドの建築家B.V.ドーシの設計事務所VASTU SHILPA CONSULTANTSが担当しており、数年後完成する予定となっています。そうした今まさに始まった学校、古代より現代に復活した学校の第1期生として中村さんには本日お話いただければと思っています。
岡本さんは岡倉天心、日本近代思想史の研究をしてらっしゃいます。本日の会の趣旨のように、インドと日本の間で何かをやろう、特に芸術、創作をやろうと考えた時に、19世紀末から20世紀初頭における岡倉天心とインドのR.タゴールそれぞれの活動は欠かせないものだと思います。また、彼らは、それぞれ「日本美術院」と”森の学校”を自らの手で設立しており。この「インド-日本-アジアをめぐる学校設立研究会」においては彼らの活動から学ぶことが多くあると考えまして、第一回のテーマとして取り上げました。岡本さんにはぜひその仔細ついて、そして彼らの活動がいかなる形で現代に接続し得るのか、ご教示いただければと思いまして今回お誘いさせていただきました。


[2]Vadodara Design Academyについて

Vadodara Design Academy のキャンパス
Vadodara Design Academy(以下VDA)はインドの西部ペルシャ湾近くのグジャラート州の都市バローダの郊外に位置しています。3月の学校の参加者はまずバローダから北へ100kmのところにあるアーメダバードから入ってもらいます。アーメダバードはコルビュジェがインドでの活動の拠点とした都市としても知られ、コルビュジェの弟子であったB.V.ドーシや、C.コレアの初期作品などがあり、郊内外の遺跡とともにインドの近代建築の成果のいくつかを実見でき興味深い場所です。そこに数日間滞在(プレ・ワークショップ)の後、バローダへ移動します。
バローダは19世紀初頭のイギリス入植の際に藩王国としての従属的自治都市としてあった場所(ガーイクワード家)で、現在も王宮を中心に配置したCity Wallが都市内に残っています。3月のワークショップはその都市部に入って古建築のリサーチ・実測と、同地域のリノベーション再生計画に取り組む形とします。ただし単なる建築単体のスケールではなく、いわゆる街並み、都市空間全体のデザインとなります。

学生の作品(基礎的造形)

学生の古建築リサーチ

VDAのキャンパスは郊外にあり、平屋建物で緑に囲まれたいわゆる大学らしからぬ独特のキャンパスを持っています。建築の専門大学であり生徒は60-80人程度でやっている場所です。このアカデミーが教育において重要としているのはハンドクラフト、ハンドドローイングです。手で図面を描き、手で模型、実物を作るそのプリミティーフを意識的に実践しています。在籍する学生たちはまず初学年で初歩的(直感的)造形課題を行い、次年には古建築の実測リサーチを行い、設計課題をこなします。3月の学校においてはこのアカデミーの教育プログラムに沿う形として課題を設定しています。キャンパス内では犬が歩き回り、学生たちは地べたに座って作業もする。外では引っ切り無しに学生たちが何かパビリオンらしきを制作している。そんな環境との対話、ないし自分たち自身がいる場所と調和できる鋭い感性をこの大学の学生たちは持っています。


[3]過去のワークショップについて

第1回ワークショップ(2014)の活動風景

第2回ワークショップ(2015)の活動風景


今回の学校(ワークショップ)は第3回目の開催となります。パソコンでの作業は基本的に行わず、ほぼ全てをハンドドローイングないしハンドクラフト、手作業のアウトプットとなります。
第1回目の課題は「余命2年と宣告された、自分の母親のための終の棲家」というもので、1日限定の課題でした。論理的に組み立てて理詰めで出てくるデザインではなく、これは明らかに自分自身のその時の直感を強く意識すべき課題であったと思います。自分が今インドのその場所にいて、何を使って、また何を作るのか。模型材料の選び方作り方も含めて、その即興の選択が自分自身のアイデアを組み立てまた論理が生まれていくこともあり得ます。
現地の、現場での空気感=ニュアンスをどのように自分が捉え、それが造形化できるか。それはかなり困難な事であると同時に限界も無く面白い課題だと思います。当時の参加学生のうちの一人、Yash Siroliyaは課題が発表されるとすぐさま大学構内の納屋へ行き、そこで集めた泥・粘土で模型を作り始めました。  この学校の良いところは、学生はもちろん、講師の含めて屋内外問わず地べたに座り込んで作業し、話をすることができるということです。このような風景は、後に言うR.タゴールが設立した「森の学校」とどこか共通する雰囲気があります。この雰囲気は大事にしたいと思っていますし、またどう展開できるのか考え詰めなければなりません。
またその同時期に別のデザイン課題も行いました。「都市浮遊民のための仮設建築・コミュニティの計画」というもので、約10年前にバローダにて大地震が起こった際に都市インフラが麻痺し、古い街が破壊されて多くの難民が発生したことを背景としています。日本も2011年には東日本大震災が起こり、多くの死者とともに多数の避難しなければならない人々が生まれました。そうした問題意識の共有があった上での課題です。インドの都市部においては今も多くのキオスクや車輪の付いた移動式露店などが多くあり、行商等を生業にしている人々は沢山います。彼らにはそれぞれ縄張りがあれば、ルールもそれなりにしっかりしてもいるのですが、都市の人々の活動は道路へ大きくはみ出し、都市の公共空間にはそうした多様な人々の活動領域が入り混じり所有者・占有者不明の部分が依然としてかなり存在しています。ライト(Light)・アーキテクチャ(軽い建築)とでも呼べるインドの都市風景の一要素を意識的に勉強してみるというのが、この課題では重要なことでした。
第2回のワークショップは2015年3月に4日間で開催したもので、日本から7名の学生が、現地インドでは21名の学生が参加し、計30名弱の参加となりました。課題は「インド農村における子どものための芸術・建築学校の計画」です。初等教育以前の、ないし既存の学校教育とは異なる位置に置かれる私塾のような場所を構想・提案するというものでした。これはVDAが現在取り組んでいる現地農村の再生計画ともドッキングしていくことを想定して設定をしました。日本学生1人に対してインド学生3人で一つのチームを作り共同設計を行いました。
実はこの時参加した日本の学生の多くが失礼ながらあまり英語が流暢ではありませんでした。実際私自身も英語での十分なコミュニケーションができていないのですが、この建築学校(ワークショップ)においてはその不得手さが逆に利点になることもあると思います。それは英語が喋れなければ、インドの彼らとは身振り手振り、そしてスケッチや模型などでの伝達をせざるを得ないからです。何かしらの絵や図で相手に伝えるために、その即興のアウトプットと反射的な応答が否が応でも必要になりました。日本の学生が黙ってしまうとインドの学生たち同士は自然と英語を使わずにヒンディー語で会話をし始めます。そうなってしまうとチームの中での議論の輪から外れてしまいどうしようも無くなるので、日本の学生はスケッチでも何でも良いから意地でも発言し続けることが必須となります。
突発的に、小課題もありました。2時間で「体が不自由な人のためのドアノブ」の実物を制作するという課題です。大学構内にある材料を組み合わせてすぐに造形化し、また不完全なものであっても自分のアイデアが表現されるようデザインの捨象と洗練が必要なものでもありました。
学校期間中は、当然毎日課題の作業に取り組み、毎日成果のクリティークを行います。それに併せて招待建築家を含めた講師のレクチャーを毎日行います。(2015年ワークショップではRajeev ,Nirav Hirpara, Osamu Ishiyama各氏、そしてKengo Satoがレクチャーを行った。)
2016年3月のワークショップの課題は、古建築の実測リサーチと、その建築を学校へリノベーション再生させる計画です。古いモノに対して新しいモノを組み合わせる、新しいモノを生み出すために古いモノを学び、建築の機能(プログラム)として「学校」という場所を作る。
ワークショップは全部で8日間の日程。前半を実測リサーチ、後半を再生計画・設計の作業にあてます。


[4]「学校を作る学校」について

R.タゴールの「森の学校」風景(『ラビンドラナート・タゴール 生誕150周年記念号』(PUBLIC DIPLOMACY DIVISION MINISTRY OF EXTERNAL AFFAIRS GOVERNMENT OF INDIA発行)の表紙より)
今日の説明会・研究会においては、表題にも掲げているように幾度か「学校」という言葉が出てくるかと思います。「学校」とは何か。ここで私が話したい、考えていきたい「学校」とは、もちろん義務教育の制度下で設定された教育機関ではなく、例えば個人が始めた寺子屋や、なにがしかの考えを持ってして生まれた私塾、そして「〜SCHOOL」つまり’–学派’と言われる思想や考えを共有する集団といった、自主的に集団化していく共同体のあり方についてです。
そして今これから、なぜ「日本-インド-アジア」の中で考えを巡らせるのか。これは偶然の出会いから生まれたことでもありますが、けれども、仮に「アジア」という文化圏のスケールを意識するならば、地理的に日本はアジアの端部であり、逆にインドはアジアとして規定される領域の中心に位置し得ています。日本の側からアジアという領域を見渡すならば、ひとまずインドに向かおうという確信めいた意思が私個人にはあります。21世紀になり、ヨーロッパ・アメリカを中心とする世界体制に変化が出始め、また世界経済の中心がインド、もしくはアジアに向かおうとしているのも決して関係の無い話ではありません。歴史、文化の伝播は単一のベクトルではあり得ませんが、歴史、文化、そして”風土”と言える人間の原初的生活の価値の在り処を遡行して追い求める方向と、近未来の世界経済の中心の移動のベクトルは、世界人口の分布状況や各地域の潜在的資本の量などを鑑みれば、両者は根底で呼び合う部分があるはずです。


岡倉天心の「日本美術院」
以上のようなことを考えたときに、日本にいる我々はまず岡倉天心の活動から何かを学ぶことができるだろうと考えています。天心が活躍した時代から既に1世紀以上が経ち世界状況も日本の状況も大きく異なりますが、それでも各地の文化、あるいは「伝統」というものはさほど変わらずに依然としてその地にどっしりと横たわり続けているのではないか。「伝統」とは、謂わば踏みつけても叩き潰しても尚消え切らないような盲腸のようなモノであるのかもしれない。そして、初めて申し上げますが我々がわざわざインドまで行ってまで探したい、考えたいものも突き詰めていけば人間の文化的初源、あるいは我々の生活の在り方の本質なのだと思います。これはまた建築というモノの核心でもあるはずです。
岡倉天心が「伝統」を探し求めてインドへ向かい、また独自の形でその「伝統」を追求するための学校(日本美術院)を作ったのだとすれば、我々はその活動を読み直してみる必要があろうかと思います。
『東洋の理想』は岡倉天心が1902年頃のインド・カルカッタ滞在中に書き上げたと言われています。当時のカルカッタはイギリスからの独立運動が盛んで、日露戦争直後の日本の国際的躍進とそのインド独立運動は、対西欧というベクトルを共有していた時期でもありました。 天心は、日本とインドがそれぞれ両端となって領域かされるアジアという歴史・文化圏を構想し、重要なのは、天心自らが実際に移動して人的交流と対話を実践することで、その観念を具体的な領域として浮かび上がらせたことです。つまり、フィクションとしてのアジアの連続性を岡倉天心は組み立てた。
天心が実現させた横山大観、下村観山等の日本作家とインド・ベンガルスクールの作家との交流は、具体的にそれぞれの絵画技法の交換や、題材の共有が試みられましたが、我々にとって重要なのはその史実以上に彼ら異なる国の作家たちが同じ場所で作った時に、むしろ何が相違したのか、違わざるを得なかったのかを考えることではないかと思います。
岡倉天心は日本においては東京芸術大学の前身である東京美術学校の設立(明治20年)に関わりましたが、天心の伝統的工芸、漆、図案(デザイン)を含む応用芸術までも含めた総合的な芸術の領域を扱うべきだという構想と、学校および体制側の考えには差異があったこと等から、明治30年頃役職を辞任しています。そして、天心は日本美術院という自らが考えるあるべき美術教育を実践する場としての私塾を開設しました。
日本美術院は最終的に茨城県の五浦に置かれ、晩年の天心の日本での拠点となるとともに、横山大観や菱田春草らへの指導を続けた。彼らは皆太平洋の大海原が眼前に大きく構えられた広間に横一列に並び、天心はその場を行ったり来たりしながら指導したと言われています。教場の近くの岸壁の突端には天心の瞑想の庵(六角堂)があり「観瀾亭」と呼ばれていたように、自然あるいは周囲の環境というフィールドの感得への意識はその学校に通底していたのではないか。
自然というすでに在るもの、そして歴史あるいは過去という既に在ったモノに対して、自分がその堆積の大山にどのように新たなレイヤーをかぶせることができるか。これは創作の在るべき姿の一つではないかと私自身は考えています。たとえ、その重なり方つまり歴史への接続の仕方が自己完結的であったとしても、接続させた、という前進の意思が必要なのは確かなことだからです。


R・タゴール「森の学校」
タゴールが1901年に始めた学校、ShantiniketanのBrahmachary Ashramはの教室はマンゴーの木の下、わずか5人の生徒と5人の先生というとても小さな規模からの出発であったと言われています。タゴールが構想した社会のあり方は、Swadesi Samaj(自給自足社会)として農民の自立と文化的生活の両立を目的とした学校の周囲の農村における復興活動として展開された。学校は、教室での知識と教室の外での実践と経験の組み合わせが主たるプログラムとして意識されていました。
また、タゴールだけではなく20世紀初頭には世界各地で同時多発的にそうした新しい教育活動が展開されてもいました(新教育運動)。R・シュタイナーの「教育芸術」の取り組みや、ポール・ゲヒーブの教育運動、そしてトルストイの初等教科書作成などがあります。日本においては特に宮沢賢治の「羅須地人協会」がそれら運動と位相を同じくしていたのではないか。「羅須地人協会」では昼間周囲の田畑で農作業にいそしみ、夜には農民たちを集め、科学やエスペラント、農業技術などを教えていました。またトルストイを下敷きにした芸術批評や、民謡を試み、そして民家・農家の設計にも取り組んでいたと言われています。当時、いわゆる人間の総合的な活動の姿として、最も可能性を持っていた(ある種の憧れの的であった)のが自然の中で自給自足を営む農民達であったのかもしれません。
建築はなかなか変わらない、ゆっくりとしか変わらない分野です。20世紀、エアコンができ、エレベータができ、そしてガラスと鉄が生まれましたが、100年が経っても依然として床と壁があり、ドアも屋根もあります。その「変わらなさ」「遅さ」を我々は意識すべきではないか。保守として構えるのではなくて、当然農本主義に依る訳でもなく、自分自身の身体と共にあるモノとして建築をあくまでも捉えるべきではないかと考えています。
そして、一人の人間が暮らすために「住処」を作り、複数の人間が集まってできた一つの家族が暮らすために「家」を作るように、 建築を学ぶ、考えようとしている人間達が集まるための「学校」を自分たち自身が構想して作り出すべきではないか。「学校を作る学校」とは、集まった人達それぞれが協力して取り組むべき作業の中身であるとともに、一つの集団としてのまとまり、一つの運動体としてあるべきと考えています。


(参考に、近現代の活動事例として他にも、
・自立的新都市をワークショップ形式で作り続けているパウロ・ソレリのアルコサンティ(アメリカ・アリゾナ州)
・アラバマ州の貧困層の家を大学カリキュラムとして建設するルーラル・スタジオ
・日本の山岳地にて一つの敷地に夏のワークショップによって建設の密度を高める高山建築学校
・北インド・ビハール州における新ナーランダ大学事業 ・南インドの環境都市オーロビル(※オーロビルの指導者として知られるオーロビンド・ゴーシュはカルカッタ独立運動の急進的活動家としても知られる。オーロビンドはその活動前後に藩主国バローダのマハラジャの元で働いていた。)
等を紹介しました。)

(佐藤研吾)

当日配布のレジュメ