荒れ地のなかスタジオ準備録2

荒れ地のなかスタジオ/In-Field Studio 2019 in Otama (https://infieldstudio.net)

ヒト-モノの対称/非対称性について

おととい昨日(8月16日17日)怒涛の大玉滞在だった。鋳造実験、木材購入、空家調査、古物収集、祭り参加、鋳造実験。

鋳物作りはいまだ実験の中途感が否めない。カンノさんに色々と段取りと協力をしてもらって風呂釜に使う石油バーナーと、仕入れたコークスを使って火を起こしてみる。が、どうも石油バーナーとコークスではとても相性が悪いらしい。

バーナーが送り出す火炎をコークスに当てても、あらかじめ作っておいた小さな炉の構造ではコークスが燃えるための空気が入り込めず、不完全燃焼で温度も上がらなかった。深夜の作業で、ガス酔いしながら。

そのあたりで、一緒に実験してくれた剛平さんと話す。鋳造については、溶解金属の出し入れあたり、鋳型の仕組みをどうするかを考えていたが、そもそもの、燃焼、そして燃料のことを考えなければいけない。火のこととなれば、人間の文明はかなり分厚い。金属の歴史、特に鉄の歴史は火の工夫と共に歩んできた。

途中、人間と動物-自然との非対称性についての話が出た。J.パーリンの『森と文明』の話に近いかとも思ったけれど、ヒト-モノ(特に無生物)との関係を見つめ直そうとする創作論を進めたい自分とすれば、ヒト-モノの非/対称性のあり方として聞いた。

作ることは、材料を加工し、形を与えることであり、また材料となるモノとのやりとり(=対話)である。作るモノの形は、その対話を通じてその像が浮かび上がってくる。(木を見て、木目の流れを見ながら、削りながら、その木を道具としていくように)

けれども、鋳造、鋳物作りでは、そうしたモノとの対話はどこにあるのだろうか?蜜蝋などを使った原型作りか?鋳型作りか?それとも金属を溶かす作業だろうか?鋳型に流し込むその瞬間だろうか?なんだか、そのあたりの、モノとの対話の所在なさに鋳造の可能性がある気がしている。また、即興が介在しきれない、計画性の必要さもある。作ることへの楽しさ、喜びが増すにつれて材料というものへ抱いてしまうアニミズムのような執着さに対して、一方でそこを突き放すような装飾と機能性の介入。いくつかの取り扱うべき次元の問題をゴネゴネとドロドロに混ぜなければならない。

そんなゴネゴネの作業の瞬間を、比較的うまく表してくれるのがドローイングだと思う。
荒れ地のなかスタジオ/In-Field Studioでは、ドローイングを活動の至るところに介在させたい。

(190818)