群れる工作の可能性について

(初出:『SD 2018』鹿島出版会)

工作という言葉には2つの意味がある。小学校の授業の図画工作のように、物体を作る工作。そして、何らかの目的達成のために計画を練り下準備を行う、和平工作のような工作。後者は政治的なニュアンスを除けば、企図、すなわち計画を推し進めるために活動あるいは運動することを意味するだろう。「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」と工作者という言葉を定義したのは、かつてのサークル運動の思想的中枢にいた谷川雁であるが、今やネットで誰もが発言し、知識となる情報が溢れかえる状況では知識人と大衆の区別はもはや難しい。人々を二種に隔て、その狭間を行き交う活動としての工作ではなく、この小論では工作という言葉の2つの意味の間、作ることと、運動することという2つの次元を束ねる試みをしてみたい。

1、モノをアクティブにする

インド・西ベンガル州のある森の中に、陶芸家と建築家の夫婦が暮らしている。工房が併設された彼らの家は、洞窟のような、アリの巣のような、なんとも形容できない独自の質感に包まれている。住人のひとりであるビジュト・サルカル(Bidyut Sarkar)さんはその家を周辺の村の人々とともに建てた。家は竹で組まれた構造体に竹と木で下地が編まれてその上に分厚い土が塗られている。家の周辺でシルト質の土を採取して、村人らの家づくりと同じように作られている。(※1)
ビジュトさんに、この家を作るにあたって重要なことは何かを尋ねたところ、いかに壁をアクティブにするか、という答えが返ってきた。地元の大学の壁画科を出たあと、建築家になった。そのキャリアがこの家作りにそのまま投影されている。つまり、彼が描く壁画、あるいは塗られる装飾は、決して抽象的なキャンバスの上で描かれるものではない。あくまでも下地としての壁、構造体自体から着想を得、下地を尊く想い、そしてその下地の特質をより引き出すように、新たな要素を付加し、下地を覆い隠す。
擬人化されたモノとの対話とも言える、彼の「壁をアクティブにさせる」実践は、日本の円空聖人の立木彫りや石窟寺院のような、モノの内実に聖性あるいはアニマを視る、物質への治療的な姿勢を備える。一方で、円空仏や石窟の所作が物質に対してマイナスの介入であるのに対して、ビジュトさんの壁作りは構造体に土を塗るというプラスの介入である点で異なり、そんな既存物を起点とした生物的増殖へ向かう想像力の径は、中世・近世社会の人々の想像力が生み出した「付喪神絵巻」あるいは「百器夜行絵巻」に描かれる、ニョっと手足を生やして勝手気ままに遊びまわる愛嬌ある道具たちの群像にも通じるものだろう。

2、モノの「遊び」

 目地が「笑う」、継ぎ目が「笑う」という言葉も、建築の世界ではよく使われる。目地がゆるみ、継ぎ目が広がったという意味だ。
「笑う」のは悪いことだろうか。不合理なことだろうか。
地震などで力が急に加わったとき、目地は「笑う」。
長年、風や雨に晒されてきたとき、継ぎ目は「笑う」。
「笑う」のは建物が生きているからだ。
(『建築はほほえむ』松山巌、94頁)

 「笑う」という言葉は建築界隈では寸法的な隙間を意味する。おそらく材と材の間が空いているのがまるで口を開けて「笑って」いるようだったからそんな形容語が生まれたのだと思われるが、そんなモノの状態を、人の動作を指す言葉で表現することに可能性を見てみたい。(※ちなみに「笑い目地」の反対語は「眠り目地」。)そしてまた、材間の隙間をとることを「遊ばせる」、「遊びをとる」とも言う。これらの同様の状態を示す言葉たちの、肩肘抜いて楽しそうな感じは一体何であろうか。「遊び(あそび)」という語は「すさび」とも読み、事の成り行きに身をまかせた気まぐれな状況を表す。先に引用した、地震や風雨によって継ぎ目が「笑う」建物は、逆に言えば継ぎ目が「笑う」ようになって、隙間が生まれたからこそ、あるいは隙間=「遊び」があったからこそ倒壊を免れ、生きながらえる。そして、新たに生まれたその隙間を調整する介入の余地も同時に生みだす。修理、補修という、ある種場当たり的で即応的な作業は、ヒトが建物に近づくための具体的な実践だ。目地が「笑う」、「遊ぶ」ことでヒトは建物に触れ続けることができる。「笑い」と「遊び」は、その大きさが揺れ動く微細な変化、”経年”という時間性を備えたモノの所作である。
木造においては時間と共に木が痩せて、胴差しは緩み、打ち込んだ楔は抜けていく。けれどもまた叩き直し、あるいはバラして再び組み立て直し、時には材を入れ替えればまた締まる。道具も同様である。玄翁の柄はケツを叩いてヒツに頭を入れ直し、場合によっては楔を打ち込んでやる。緩んできたら、バラしてまた調整し直す。日頃使う道具はそんな風に調整可能なモノが望ましい。どうやったら組み立てられるか、バラせるかが分かる道具は自分で直すことができるモノ。見た目は決して洗練はされていなくとも、過去の作り手あるいは使い手の痕跡が辿れるモノ。かつて、”民具”と呼ばれたのは、そうした日頃の無数の道具の群であった。

アチックに集められた物を概観して不思議に感ずるのは、多く集れば集るほど、それが、ある統一へ向かって融合していくと同時に、そこには単一の標本の上からは見出せない、総合上の一種の美を感ずることである。・・・アチックのものは、一つ一つには随分と汚らしいものが多いが、集るにつれて一種特有の内的美を感じるのは何故であろうか。
(16頁)(「祭魚洞雑録 アチックの成長」渋沢敬三『渋沢敬三著作集 第1巻』平凡社、 1992年3月)

 アチックとは屋根裏の意味で、渋沢敬三邸内の物置小屋の屋根裏を指した。アチックに集まったモノたちは群を成すことで、その共有される価値が浮上して見えてくる。渋沢の民具、あるいは玩具へ向けられた可能性は、そうした広大な無数のモノたちの群景にあった。一つのモノに対して美学的な価値判断を試みた柳宗悦らの民芸運動とはその点で大きく異なる。アチックの活動は、限られた数のモノを並べ、その有限な、けれども複数ある物体たちから、生活、および生活を支えた技術という人間の工夫、有形無形の総合を遠視しようと試みていた。(※2)

3、ヒトとモノの限界

そうした有限の領域から境界の外を眺め見る試みは、民具学の構築なる研究活動にとどまるのではなく、モノの創作活動においても実践される形式である。

……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……
(「農民芸術概論」宮沢賢治)

 宮沢賢治が指揮した花巻の羅須地人協会では、農作業や肥料設計等の農業指導という実践に加えて、「農民芸術」理論の講義、さらにはレコード鑑賞会や童話朗読会、エスペラント語や楽器指導等といった様々な領域の、個人の内実における共存が図られた。個人というある有限の可能性を探求したのが宮沢賢治の農民芸術であった。鶴見俊輔が、宮沢賢治の活動を含んで限界芸術というものを「それぞれの個人が自分の本来の要求にそうて、状況を変革してゆく行為として」捉えたように、宮沢賢治は限られた個人の生活変革への希望があった。
個人性、個人の内にこそ全体を育もうとする教育運動は、機械産業が発達し、国民国家が形成され、世界的大戦が始まろうとしていた20世紀初頭の世界各地で勃興していた。ある種、その文明の発展と表裏一体で在り続けた不安感、共時的な時代の転形の顕れでもあっただろう。同時期に、近代建築の祖とされるバウハウス初期、つまりワイマールでのモホリ・ナジらの基礎教育では、いくつかの限られた素材を用いた、幾何学をベースとする立体造形を作ることが試された。素材の質感、量感に感応する個人の才質を引き出そうとするものである。それは、全ての人間に才能がある、という個人性に対する信頼であり、裏を返せば、限られた素材と有限の人間の才質のかけ合わせによって広大な発展可能性を得ようというものであったとも言える。そしてそれは、人間と技術の規格化へと向かう工業デザイン黎明期の泡沫の一形であった。
「農民芸術概論」で幾度か登場する「第四次元」の領域への志向は、同時代に発展したアインシュタインを筆頭とする近代科学の成果に感応した、宮沢賢治自身の想像力の拡張の兆しであり、農民生活という半ば長尺な時間性への興味であろう。生活に基づく芸術をめぐる宮沢賢治の言葉には、科学と個人的才質の融合が断片的に、かつ直感的に現れ出た。農民生活という実際的で生身な実態と、人間の五感では感知し得ない異次元を夢想するにはいささかの隔たりがある。が、その隔絶さ、有限性からその彼方を志向しようとする、想像力拡張の意欲こそが、確実にその運動を運動たらしめた因子となっていたのではないか。アチックという限られた空間から広大な技術世界の地平を眺めようとする渋沢敬三の視座に接続する。

4、アマチュアな日常から

再び、はじめのインドのビジュトさんの家づくりに戻りたい。彼の壁を「アクティブ」にする実践は、新たな要素を与える彼自身の構想力が必要であり、「アクティブにさせる」という思考と具体的な形の間にはいくらかの飛躍が必要であるが、重要なのは、彼は「アクティブ」になった壁の具体的なデザインは描かず、彼の手によってではなく、共同者である村人たちによって最終的な形が与えられていく。「壁との対話」なる個人的感覚は、村人たちによる複数の手を介することによってその共同作業の極めて具体的な指針となる。そして、壁をアクティブにさせるという命題は、その命題の半ば投げやりさゆえに、村人たち作り手自身がどうするか、どのように作るべきかを考え工夫する余地、つまり「遊び」を与え、作り手自体も「アクティブ」にさせる、労働の喜びをもたらす共同性の起爆剤として作用していた。機械産業が本格化する近代社会において、労働の喜びがかつてあったというイタリア中世を論じたのは、イギリスのジョン・ラスキンであるが、労働の喜びとは、創作への熱中、熱狂的な態度、すなわち、アマチュア的感性ではなかったか。アマチュア(=Amatuor)とはいわゆるプロフェッショナルに対置される言葉ではなく、本来は熱狂者(Lover)の意を表すラテン語Amourを語源とし、物事への傾注さ、熱狂性を表す言葉であるという。(つまり”アマチュアとしてのプロ”はむしろ然るべき存在である)
ビジュトさんと村人らによる壁づくりにおいて在り得ていたアマチュア性の担保は、その壁を「アクティブ」にするという命題によるものだけではない。彼らが用いた素材、つまり、彼らにとって馴染み深い現地調達の土を使った作業であったことも重要であったはずだ。彼らが普段彼ら自身の家を作り、修復する時と同じ素材と技術を使うことで、日常生活の延長として、ビジュトさんとの共同があった。自分の家を自分で作り、直す彼らの生活、家と人間が限りなく近い距離で触れ合う日常(※3)は、現代の我々にとっては輝かしい特殊になってしまっている。しかし、そんな専門非専門の職業的分類を馬鹿げたものにしてしまうような彼らが使いこなす日常語の発話の如きモノの創作姿勢を、建築プロジェクトの中へと引き入れた、その周到かつ直感的な建築の作られ方に大きな可能性を見たいのである。
ヴァナキュラーとは、建築界隈ではB・ルドルフスキーのMOMAでの展覧会に際して組み上げられた、土着で匿名な建物や風景を形容する意味として使われることが一般となっているが、本来的には言語学的な「母語(=mother language)」を表す。その土地に生活する人々にとっての馴染み深さを示す。つまり、ヴァナキュラーが指すものとは、アノニマスとしては決して隠蔽され得ない、確かにそこに住む、特定された具体的な人間たちの存在があってこそ成り立つ所作であるはずだ。ビジュトさんは自宅の工事を終えた後は、村人らと共に設計施工のプロジェクトをやりにインド各地へ出かけている。彼らはいくらかの道具だけを携え、鉄道に乗って移動し、現場で材料を探して建築を作る。ギルドとしての複数人の作り手が、場所と反応していくその様は、行く先々の森で掘り出された数多の円空仏の群景に再び重なる。建築をめぐる人間とモノが具体的であればあるほどに、彼らと彼らが作るモノの往復運動は絶えることがなく、その運動の束はより分厚いものになるに違いない。

5、工作の群れ、工作を群れさせること
この小論の中で巡ったいくつかの先例に共通するものは何か。それは、作ることと運動することの両輪を併せ持って奔走する姿である。そして、作られるモノと作る人の複数性である。マニファクチャーとしての生産原理とは異なる原動力(それは人がモノに触れた時に生まれる想像力、有限のモノを見つめて無限に拡張しようとする夢想する力であったりする)を持って、複数の人とモノが寄り集まり、作ることと運動することを続ける。群れて工作すること、複数の工作を群れさせること、群れることでできる工作を試みること。それは新たな形としての共同体(あえてこのステレオタイプな単語を使うのは、筆者自身の過去への憧憬である。けれども過去の形式あるいは手法の参照ではなく、憧れという自分自身の想像力を保持するのを意図して使っている。)が生まれる起因にもなるだろうし、共同体があり続ける根拠を生み出しもするだろう。
筆者もそんな群れの中に入って、あるいは群れを作ることで建築を続けている。そして、建築の設計であれ、家具の制作であれ、調査研究であれなんであれ、それらの作業が冒頭に述べた2つ意味、作ることと運動すること、としての工作となるよう試行を続けている。

※1 ビジュトさんの家
家に併設された工房には焼き物用の大きな窯があり、もっぱら彼の妻で陶芸家であるリピ・ビスワス(Lipi Biswas)さんが使っている。リピさんが作る陶芸の作品はとても可愛らしい。お皿から生き物のような足が生えていたり、ボツボツとした穴があいて、ボトボトと分厚い釉薬が塗られていて、今にも動き出しそうな形と表情である。ビジュトさんが壁画と建築を作り、リピさんは陶芸を作る。作るもののスケールは違うが、土という共通する素材を扱っている。彼らが一緒に暮らし始めたのも土という素材が同じであったかららしい。そしてその土は、周囲に広がる森の中で入手でき、近くの村でも同じように使われている。
彼らが住む母屋は、実はもともと建っていた民家に手を入れたものだ。既存の柱に土と漆喰を塗って、同じく塗り直した床や新たに据え付けた石の机と、表面はシームレスにつながっている。基本的に裸足でその土の床を歩き生活をしているので、そして彼らはどちらかというと小柄なので、なんと既存の高さ100センチ程度の高窓を彼らが出入りするドアとし、その窓の下枠の高さに合わせて新たに上階の床を作って屋根裏のような寝室を作っている。その床はヤシの木を挽いた板材で、表面をやすり、目を潰すことでヌメっとした艶やかな質感を備えている。もちろんヤシの木も森の中で入手できる素材だ。

※2 有限な物体から遠視する
渋沢敬三のアチックのように、日本全国から部品を集めて一つの小空間が作られた特異な例を紹介したい。明治初期に活動した探検家である蒐集家の松浦武四郎が終の住処として作った一畳敷である。松浦武四郎は江戸末期の当時の蝦夷の踏査を行い、「北海道」という名前を付けたとも言われている。現地のアイヌの人々の民俗についても精緻なスケッチを残し、明治初頭に新たに国名郡名を制定する際にも元のアイヌ語の地名を参考にしたりの、アイヌ文化への良き理解者であった。北海道に限らず生涯を通じて全国を遊歴し、各地の名峰という名峰を踏破した近代登山の先駆けでもあった人物である。
そんな松浦が晩年になって、旅先で出会った知人に手紙を送り、数年をかけて全国の古刹霊社の謂われある建物の古材を求め集めた。それらを部材として使い作ったのが一畳敷である。その差掛けの小空間には全部で91の木片が散りばめられ、板縁を巡らせた一枚の畳を取り囲んでいる。その一畳の間で木片を眺め、触り、居ながらにして松浦は時空と距離を超えて日本中を旅することができたのだ。彼にとって一畳敷は壮大な情報を内蔵する倉庫であり、極小で有限な場所から世界を遠視することができた。そうしたモノが持つ情報、すなわち全ての木片部材の由縁は『木片勧進』という一冊の彼の著書に詳細にまとめられており、それを読むことで、彼以外の人もその情報世界を追うことができる。物体と意味の領域を取り結ぶメディアの可能性を考えるにおいても非常に示唆に富んでいる。

※3 家と人間が限りなく近い距離で触れ合う日常
インドのベンガル地方に居住するサンタルの人々の暮らしは、限りある環境の中での無限の工夫に満ち溢れている。彼らの村の近くの森には良質な土が取れる泥切り場がある。それはコワイ(Kowai)と呼ばれる独特の地形によって生まれている。雨季乾季の季節の激しい移り変わりによって川の筋が毎回移動し、川が通った跡は4-5メートルほどの深さで削られ、底にはシルトに近いきめ細かい粘土が堆積している。村の人々はそこから土を自分の家の中庭へ運び、飼っているウシの糞を混ぜて家の壁の材料を作る。家の壁を作るときには、型枠も何も無しに、そのまま土を塗り、積み上げていく。およそ40センチほど積んだところで仕事をやめ、一週間から一ヶ月ほど乾かして固め、またその上を作るそうだ。なので一つの壁を作るのに1-2ヶ月ほどはかかる。土の壁が立ち上がったら、その上に別種の砂と色粉を混ぜた漆喰に近い材料を薄塗りして仕上げる。時にはさらに土を重ねて凸凹を作り、造形もする。仕上げの色や模様は家ごとに、壁ごとに異なり彼らの村の風景を彩る。そしてその技術や、デザインの工夫は、基本は彼らの先祖由来のものである一方で、村人たちがビジュトさんのような近隣の芸術家、創作家らの作業の手伝いをする中で学び取ったものでもあるらしい。ちなみに粘土の下地壁は男の仕事で、仕上げは女の仕事であると村では一応きまっている。屋根葺きは男の仕事で、先ほどの床塗りは女の仕事でもあるらしい。家の中でそれぞれの領分がなんとなく定まっている。
そして、彼らは家のどこかでいつも小さな補修作業、あるいは土塗りによる掃除をしている。朝ごはんが終わるか終わらないかの時間で、彼らは毎日家の土間の床を掃除する。水と土、そして釜場から出た灰汁を混ぜ、箒か布でそれをすくい取って土間に薄く塗っていく。その塗る手の軌跡が土間にテクスチャーを残し、乾くとかすかな波形を描き出す。毎日掃除をする彼らの家にはゴミはほとんど落ちていない。壁も床も土でできているので、泥を塗っていく掃除は住居の補修にもなっている。彼らの生活のなかで、家づくり、あるいは家直しは字のごとく、「家事」の一つであるようだ。