荒れ地のなかスタジオ準備録4

荒れ地のなかスタジオ/In-Field Studio 2019 in Otama (https://infieldstudio.net)

技術の有限性について

8月23日、朝から自作の窯を使ってコークスに火を付けることを試みるが、どうやっても火がつかない。あいだに藍染め体験会の仕事を挟んで昼過ぎから再度コークスを燃やしてみる。が、着火がまずうまくいかない。であれば石油バーナーでコークスを炙り、着火したあと三郎さんの500W掃除機の送風に切り替え、コークスを足してみたが、火は続かない。途中からカンノさんに手伝ってもらい、木炭も放り込んで火つけを試みるが失敗。 結局この日はコークスの火入れはできず、前回同様石油バーナーでの直火でアルミを溶かした。鋳型はスタイロフォームを加工した造形を通常の川砂に埋め、それに溶かしたアルミを直接流し込んだ。アルミの温度によってスタイロフォーム揮発し、その隙間にアルミが流れ込んで、スタイロフォームがあった場所にアルミが置換されていくという仕組み。砂を払って中身の出来を確認してみたがおよそ10CMぐらいの深さではあったが最後まで到達することはなかった。途中でアルミは止まってしまったのである。また、砂の表情もかなり目立つので、砂の粒子の調整は必要かもしれない。あるいは、スタイロフォームを引き続き使うとしても、砂との面に別種の塗料などを塗布することもできそうだ。

作業をしていて、そうした正攻法、形式はやっぱり気にはなる。けれども、何かのマニュアルなしに、素材と応答することもまた大事だと思うのだ。

少なくともその応答で得た生な感触を、ドローイングという別種の出力に反映させることはできるだろう。ドローイングは、自己の内からなる発想というような大それたものだけでは決してなく、素材との応答に関する記録、絵日記のような様相を呈するのが良さそうである。

非熟練の、ある限られた知見、有限の技術によって作り出されるモノ、あるいは創意そのものを、なんと名付けるべきだろうか。以前、インド・シャンティニケタンの住宅についての小文を書いたときにも持ち出してみた考えだが、未だ掴みきれていない。(そのときは、「限定性の美学」という洒落た言葉を使っていたhttps://korogaro.net/archives/1121

レヴィ・ストロースのいうブリコラージュ、あるいはその担い手ブリコルールが、もう少しだけ野心的にモノづくりに励んでいる姿だろうか。あるいは鶴見俊輔の「限界芸術」も 確かな概念だと思っているが、純粋芸術の周縁という意味で「限界」を使っているので狙っているところが若干ニュアンスが異なる。ただ単に、工業化、大規模機械産業の対となるかたちでの「小さな技術」「やさしい技術」とも少し違いそうだ。