荒れ地のなかスタジオ準備録5

荒れ地のなかスタジオ/In-Field Studio 2019 in Otama (https://infieldstudio.net)

家づくりへの感度について

昔の人は建築、家を自分で作っていた、とよく言われる(伊藤洋志さんも『ナリワイをつくる』でそんなことを指摘している)。それは人々が生活の中でさまざまな仕事をしていたし、百姓と呼ばれた人々はその名の通り、百の仕事を持っていたような暮らしがあり、その中の一つとして家を作り、直し、家を生活の道具としていた。
「家は生活の道具」と考える人にとっては家づくり、家の改修はそこまでハードルが高くないはずだ。むしろ生活あるいは生業のために家をチューニングする必要性がどこかで必ずある。そんな人たちは、ただ寝泊まりをするためだけに家に帰って来る人たちに比べて、家と向き合う場面が圧倒的に多い。向き合う場数というものが家づくりには必要だと思う。
家は、誰でもが自分自身で作った方がよい、あるいは自分で作らずとも、どのように、どのような材料を使って自分の家ができているかは考えて、知った方がいいと私は思っている(もちろんそれは石山修武さんから教わったことだ)。設計屋なり工務店なりは、なるべくその家をどんな材料を使ってどのように作るのかを施主に説明をするべきだし、施主が考えるその十分な手助けをすべきである。

かつて、「規格構成材方式」を掲げた剣持昤は、来たる工業化時代の建築では、「部品が建築設計に先行して存在している状態」であり、「設計に先立ち部品が存在し、その組み合わせの中にのみデザインの可能性がある」と考えた。もし剣持が言うように、部品の組み合わせが自由な形で可能であれば、建築は様々な展開が考えられただろうが、実際の建築現場は、保証やコスト、そして法規制と業界の囲い込みを理由として、部品は複合されたモジュール化の方向に向かった。さらにはハウスメーカーらのブランディングと性能の担保の必要からそのモジュールは建物全体、つまりパッケージ化、ブラックボックス化された住宅供給へと行き着いている。このモジュール・スケールの拡大は、BIMなどの設計技術の高度化と高速化によってさらに加速していくだろう。そして住まい手の感度はますます鈍っていきかねない。

加えて、人々が家づくりに向き合う機会がほとんど無いこともまた、その感度を鈍らせる原因となっているのは間違いないだろう。世の中のほとんどの人が、人生でせいぜい一つの家くらいしか建てることしかできない。
人間の生活の三大要素として衣食住と言うけれども、その3つのうちで、住を手に入れる機会というのは圧倒的に少ない。衣服は毎日着替えるし、季節ごとに新しい服を買ったりするだろう。食べ物は1日3回違ったものを食べ、家で自炊をするにも毎日スーパーで食材を吟味して買い、気にする人は産地や農薬の有無も確認する。普段はユニクロなどのリーズナブルな服ですませたり、ときどき高い服や、良さそうな生地を選んで買ったりすることもある。朝食べる料理は自分で作ったり、昼や夜は外に出かけてレストランで食事をしたり。その時の気分や目的に応じて、衣服や食の中身は誰もが好き好きにコントロールし、また関心が高い。多くの人々が、日々の暮らしの中で衣と食には自分なりの価値判断を持って選択ができているように思える。
住はどうか。工務店やハウスメーカーから提示された家の仕様や見積もりをそのまま受け入れてしまってはいないか。どうもスケールの大きなモノ、桁の多い金額に対する感性は鈍ってしまい、思考停止に陥りがちになってはいないだろうか。
それは公共建築、政治に対する感度の有様についても言えるだろう。自分の生活に関係があることはわかっていても、そのスケールが大きすぎてしまって、思考を巡らせることを諦めてしまいかねない。
そして、感度の低下は住まい手だけではない。筆者自身の自戒も含めて、家の作り手である設計屋や職人さんも同様に、建築現場が集団作業であり他人に任せる部分も多分にあるがために、その家づくりについての細かな吟味を怠り、家づくりに対する主体性を失いかねないのである。
さて、それではどうするべきだろうか。小さなところ、自分が一歩進んで手を伸ばせるところから始め、だんだんと、順々に自分が把握するスケールを広げていくしかないのである。

荒れ地のなかスタジオが「ドアハンドル」あたりの所作を考えることから始めるのは、そんな問題意識もある。