KOROGARO / kengo sato / 佐藤 研吾

滑稽な巨人について

津野海太郎の坪内逍遙論『滑稽な巨人』を読んだ。何故今?とかは関係なく読んだ。
逍遙は当時においてすでに文化の多元性を認め複合させた形ことがあるべき文化(「新文明」)と考え、生涯一貫してその実践に取り組んだという。
西洋を倣って近代化センとする当時からすれば先進的なその構想は、その一貫した複雑さ故に、周囲の文化人からは散逸的かつ突飛な道化の如き活動としか見做されなかったようである。
けれども逍遙の失敗を繰り返しながらも進む実践の径、自宅を舞台に改造したり自宅横に文芸協会の「劇場」を建設したりの場当たり的な行動力、頓挫と復活を繰り返すドンキホーテの如き逍遙のどたばた人生。
世界を見据えた芸術運動とすれば、逍遙のそれは広がりの少ない矮小な運動にしかならないが、その場の文化の醸成こそ本意とする、外からの批評を待たないまさに一本勝負、あるいは自身の評価こそが世界の最前線に繋がるというミクロコスモスの場の作り方、当然実際の現場は疲弊していただろうが、面白い。
東京の文化、ニューヨークの文化、パリの文化、いわゆる都市、あるいは地域というスケールでモノを語ろうとするものは全て空疎というか、机上の空論のように自分は思ってしまうのだが「坪内家の文化」とまで視界を狭めてもらえれば、アアッーという感じにこちらの頭の中にその空間が立ち現れ、彼らが動き回る姿が浮かび上がり、とても合点がいくのである。
文化という言葉の語源はよく知らないが、仮に”場の文化”というものが在り得る、もしくは掲げられるとすれば、場とはそんな一人の人間が普段歩き回れる程度の大きさの領域ほどに狭いものなのではないか。空間論、あるいは建築論として興味深かった。

1st Sep, 2016

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