KOROGARO / kengo sato / 佐藤 研吾

151220-1

高山建築学校について

すでに数ヶ月前となってしまったが、今年の高山建築学校に参加したのは、「高山建築学校に今後関わり続けていきたい」の自分の意思を伝えに行きたかったからであった。高山建築学校がこれからどうなるのかは自分には分からないけれども、その名前を掲げ続ける限りはこちらも関わり続けたいと思っている。それは過去に引きずられている訳では無く、「高山」という固有の場所を掲げること、「建築」という得体のしれないモノ、「学校」という共同体の在り方についての興味が尽きないからである。

高山に行くのは一年のうちの夏のごく一部分の時間であるので、自ずとその他の自分の生活(主に東京にて)と相対化してしまう。今、高山にいない時においても興味を持ち、また考えを膨らまし始めているのが、やはり「学校」という場所の在り方について、「学校」の作り方について。学校というのは、初源としてはおそらくある社会組織の内の支配階級に属する人間の意思統率・統制・養成のために生まれたのかと思うが、組織内部の腐敗に対しておよび、半ば反体制的運動の中で、このままではいけない、なる意志を持って発生した私塾の如き学校も又同時に生み出された。物事には常に二面、表があればそれに対する裏があるが、学校というモノの成り立ちを考えた時も、そうした二つの異なる属性があるだろう。高山建築学校は明らかに後者としての始まりである。

世界がほぼ同時に近代国家成立の必要に迫られ、国民の意思統制と国家全体として進むべき・倣うべき目標を見定めた人材育成の教育システムが各地で整備され成熟しかけたのが今からおよそ100年前頃のことだと思う。それに対して、こちらもほぼ同時多発的に、それぞれの大勢の教育システムとは異なる、より全人的な人間の知的探求を行う場としての学校の考えが生み出されている。インド独立直前のR・タゴールがベンガルの森の中でわずか5人程度の学生を前にして始めた「森の学校(Visva-Bharati Brahmacharyashram)」や、R・シュタイナーの「教育芸術」の取り組みや、トルストイの初等教科書作成、日本においてはむしろ綾小路実篤の芸術村や宮沢賢治の農民芸術概論のような数多の初歩的実践である。

それらに共通していたのが、少々飛躍させるが各人の「自由」な思考と、「自然」を中枢に置く人間の営みではなかろうか。そして、高山建築学校ももしかすると、半世紀の間をあけてのそうした世界同時多発的な教育運動のバトンの何がしかを受け取っていたのかもしれない。ただしここで言う「教育」という言葉については各人のよりいっそうの追究が必要ではある。「学校」という場所、共同体を指す言葉についても同様である。家ではなくて学校である。町でもなくて学校である。そしてそれは決してキャンプ、キャンプ的ではない衒いない率直な探究心を持つべき場所でもあるはずである。

そこに、「建築」が頭につくとどうなるか。私はあくまでも、どこまでいっても「建築学校」はモノと実物にこだわる場でありたい。おのずとモノの数々の群体に囲まれた中で呼吸をするように言葉を吐く、相互の観念の場でもありたい。時には観念を露骨には出さずにモノとモノが会話できるだけの、各人の感覚を研ぎ澄ます緊張の場でもありたい。それが今私が考える高山建築学校である。

 

2015年12月20日

佐藤研吾

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