KOROGARO / kengo sato / 佐藤 研吾

161029

普段から、いささかの時間を江戸東京の都市史の研究にかけるのを日常としているためか、うつつを抜かすように現代の都市生活を眺めてしまうことがある。生活、と一言でいえども、なかなか今の我々の多様極まるその全容をつかみ取ることは簡単ではない。行き過ぎた個人主義の成果とも言えるだろうこのライフスタイルの多彩さは、同時にグローバリズムが席巻した後の多文化主義の表れでもあるのか。現代においては一定の価値が認められている多文化主義という思想的成果は、あくまでも近代における国民国家成立(=「国民」の誕生)から始まった統合と分裂の揺れ動きの一側面でもあろう。インドの詩人ラビンドラナート・タゴールが指摘したように、前近代においてはそもそも人々に「国民」という意識は無く(=no nations)、それぞれの身の丈にあったそれぞれの生きる領域がバラバラと世界の中に散在していたのである。

イヴァン・イリイチはそうした身の丈にあった物事のことを「ヴァナキュラー」と形容し、そうした物事を選び取って自らの身の丈にあった生活を送る人々のことを「自律的主体」と表現した。つまり「ヴァナキュラー」な生活は貨幣経済のような外部から価値が規定されずに、あくまでも互酬的なやりとりのみがなされるべきというものである。にもかかわらず、我々は貨幣経済の内からその生活を眺めてしまい、退屈で、貧相なものだと勝手な価値を定めてしまうことがある。

貨幣的価値を生産しない我々の日常の暮らし、というものの本来の姿とはどのようなものなのか。我々の現代の暮らしはもちろん古代文明から歴史的に繋がっているはずであるが、今、その本来の姿を探し求めなければ掴み損なってしまうのではないか。私はそうした焦りを、フッとした日常の隙間に、微かに感じている。

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