KOROGARO / kengo sato / 佐藤 研吾

亞青寺について

我々が亞青寺に到着したのは夕暮れの頃であった。時刻は午後7時くらいであったろうと思われる。四川省のこの辺りは中国の中でもかなり西部に位置しているので、東側の首都圏に対して昼と夜の時間帯が少しばかりズレている。日本にほど近い上海北京などの都市がもうすでにトップリと夜が更けても、この場所はまだ日が明るいのである。時計を気にしながらの近代的時間感覚からしてみれば既に夜になったはずなのに太陽はノロノロと未だ空の中を漂っている、そんな隙間のような時間に、亞青寺に辿り着いた。

亞青寺は「ヤチェン」と呼ばれる修行場である。ある日本人の調査によれば、この修行場はできてまだ30年程度しか経っていないらしい。1人のカリスマ修行僧によって開かれたゲリラ的宗教拠点のようである。故に正確には寺院として登録はされておらず、外圧の影響を受けながらの拡大と縮小を繰り返す、幻想的な都市である。

標高は4200m程度の、広大な高原地帯にこの都市は忽然と現れた。この都市には確かな構造らしきものがある訳ではない。あるとすれば都市の中をゆっくりと蛇行して流れる河がある。この川が流れてくる上流を眺めれば、6000mはあろうかという鋭い山々が遠くに切り立っているのが見える。河辺の道には数多くの僧侶達が歩いているのを眺め見た。夜なのに明るいぼんやりとした光で河はうっすら光っていた。河は彼らのゴミゴミとした住居群を囲み取り、彼らの小さな住居の群は河に寄生するかのように寄り集まって生活しているようだった。その住居の隙間を縫うように一本の細道が通っている。その細道に面した家々から頻繁に人びとが出入りしているのが見える。

聞けば、その地域には約9000人もの尼僧が暮しているのだという。遠くから見えたうごめく沢山の僧侶達は全て女性であったようだ。結局今回の訪問ではその地域の中に脚を踏み入らなかった。

私はまだ「女の都市」という特殊な都市の姿をこの目で見たことがない。そんな都市の中にはむしろ当然に、性差のしがらみを突き抜けたような別種の時間が流れているのかと想像する。日本の中世世界の内奥に迫ろうとしていた歴史家・網野善彦の書く著作のいくつかにも、そのように独自な集まり方をする人びとの社会が登場していたが、ヤチェンの尼僧の都市は網野によって描かれた「無縁」の聖域が如くの独特な閉鎖性と隔世した浮遊感を持っているのかもしれなかった。

ヤチェンに集まる修行僧たちの多くが、チベット文化圏からではない、東部沿岸地域を含む漢民族の人びとであると言われている。かつては都市的生活を送っていた人間もなかにはいるのかもしれない。彼ら、彼女らがどのようにして精神的転向を遂げたのか。私財を全て振るい落として、苦行とも外からは見れるバラック都市に住み込んだ彼らはどのような生活をしているのか。そして果たしてどんな不安を抱えているのだろうか。私は頭の中でそのような茫漠とした疑問を膨らませている程にヤチェンという都市は謎めいて浮んでいた。私は朦朧とした気分でその都市を眺めていた。

先に、河のそばの女性のバラック地域について少し触れたが、ヤチェンはどうやら他にも二つの別のゾーンがあるようである。

河が流れるところから少し高台に登ったところには男の僧侶たちが暮らす地域がある。そこもまたゴチャゴチャのバラックである。そして道を挟んだ所には数多くのストゥーパが建てられた起伏のある丘があり、その丘の手前にいくつかの宗教建築が並んである。なかには建設中の、未だコンクリートの型枠が付いたままの巨大ストゥーパもあり、この都市の宗教活動が今まさに活発であることも伺える。

男の僧侶達の住居、僧房は小高い丘にへばりつくように段々状に密集している。どれもバラバラの大きさの木材を骨組として、ビニール製のシートや布を被せてそれをホチキスで留めているだけの粗末な家々であった。おそらくは彼ら自身が作った家である。その家も道に対して小さな塀で囲まれた庭を持っており、中にはこれまた小さな畑を作っていた家もあった。家の中にいた僧侶たちはみな、私たちがその横を通り過ぎるのを窓からほんの少し顔を出して珍しそうに眺めていた。窓は何故かほとんどが既製のアルミサッシュであった。どこか別の街から流れ着いたものなのかもしれない。日暮れ時の、縹渺たる光のなかで、そのアルミサッシュだけがギラギラと輝いてしまっていたのを記憶している。そしてその窓から少し眩しそうに顔を出していた僧侶たちの口元は動かさずに笑う微かな表情が、周り一面に広がるゴミの塊の都市の風景に不思議と深く溶け込んでいるようにも思えた。

この都市はあらゆる人間とモノたちが外から流れ着いてできた、漂泊都市である。人びとは精神的発展を求め、チベット仏教を介してこの地に流れ着いた。彼らが共有しようとしているであろう豊かな精神世界の情景は、巨大なゴミの塊の如くにモノ達が蠢くヤチェンの騒然とした都市風景とは次元を違わせながらも、間違いなく不即不離のものとして同じ地平上に発生している。

http://setagaya-mura.net/jp/journey_west.html

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