KOROGARO / kengo sato / 佐藤 研吾

170427 Xining

170427
いろいろと西寧について教えてもらったが、特に市街を廻ることはせず、滞在している宿でシャンティニケタンの小建築の詳細図を描く。今、現場では工事が目下進行中で(穴掘りと基礎工事)、現地の協力者である建築家が構造の検討をし、日本の自分が逐一その情報をもらいながら詳細を詰めるという形でだんだんと進んでいる。なかなかの遠隔的オーバーラップでスリルがあるし、当のクライアントは気が気でなさそうだが、現場から離れたある種の即興をデザインに組み込めているのかもなという感もあり。とはいえ、日本という遠隔からやり取りしていた自分が、物理的には若干距離は縮まったものの世界の屋根とも呼ばれるヒマラヤの巨大連峰を挟んで明らかに秘境であるチベットに向かっているのは我ながら愉快でもある。愉快というのは失礼だが、けれどもインドの建築を考えるために我が身をとりあえず日本・東京を離れてみるというのは一応自分の理にはかなっているつもりである。
昼過ぎ、駅近くのラーメン屋(ここも回族が経営していた)に立ち寄ったあと、青蔵鉄道という長距離列車に乗り込む。西寧からチベットの拉薩までの直行列車で、数年前に開通したばかり。この鉄道ルートができたことで拉薩に行くために西寧を経由する観光客が激増し、西寧市内は急ピッチで都市化と建物の高層化が進んでいる。
鉄道では寝台車に乗り、他にも中国人の家族が上のベッドに入っている。彼らは大量のひまわりの種とナツメと野菜を持ち込んでモリモリ食べている。気前のいいおじさんだったので、野菜のいくつかを熟醬というとりあえず美味しい味噌らしきを付けてくれた。車内ではもっぱら河口慧海の『チベット旅行記』を読む。河口慧海は1900年前後の日清戦争の直前に、およそ4年かけてチベットに残る経典を求めてインドコルカタからブッダガヤ、ネパールを経由し、中国の僧侶に扮してチベット・拉薩に入った。周到に語学を学び、俗学を習得して、臨機に応じてチベットへと突き進む彼の軌跡は旅行記というよりも冒険録である。けれども彼は冒険という近代的な知の探求ではなく、あくまでも仏道の追求であったと言っている。仏道探求の旅ゆえ、その記録文の節々には彼の当時の人間らしい息遣いと、仏法を貫こうとする貫徹した意思の合戦が繰り広げられている。青蔵鉄道という拉薩直行のルートを採って優雅に砂と雪入り混じる外の景色を眺めている我が身を恥じつつ、慧海が踏破したヒマラヤの裏側の世界と拉薩の地を必死に頭の中で思い浮かべる。

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