KOROGARO / kengo sato / 佐藤 研吾

140718 剣持れい(日に令)が投げかけていた微細な民衆像の粗型について (YSEMINAR)

神奈川県川崎市郊外の小高い丘の上に建つH邸は、建ってから既に50年弱の時間が過ぎている。今のその住宅は、まったくもって周囲の住宅地の風景の中に溶け込んでいた。前庭は立派な生垣と芝生が整えられ、H邸の文字通り骨格である4本のGコラムの鋼鉄既製柱の架構は明らかに周囲からスケールを逸脱していたが、その架構の内には数々の住宅部品が、50年の月日が経ってもなお生々しくならんでいてその巨大な構造をぼやかしていたようにも見えた。竣工当時明らかに時代の先進に位置していたH邸自体が時間によって翳んだのか、それとも周囲の景色がH邸に追いついたのか。そんな風景の内奥について考えてみたい。

H邸の設計者である剣持れい(日に令)の中心にあったのは、まずは理論(方式)を据えてみようという実践的な「思想」である。理論一辺倒でいったんは組み立てた後に、理論と現実の間のなかに生れ出てくる矛盾といったものをすぐさま実践の中で解決していくという段階的戦略性の持ち主であったと感じられる。規格構成材方式という部品生産の論理は、個々の多彩な実践を産み出すための土壌、あるいは秩序として彼の活動の中に位置づけられている。

産業システムに介入して市場を整え、さらにはその生産構造の末端に位置する現場における自由を成り立たせることを剣持は独人で構想し目指したのだが、そこには明らかに黎明期の共産主義と共有する感覚がある。その姿は自己演出的に誇大で、それでいて状況に対して本質を暴くパワフルな振る舞いであったと想像する。

H邸を設計した1967年、剣持はわずかに29歳であったという。ちょうど彼が東大内田研究室で博士論文を提出した次の年である。博士論文「開口部論」を今読むに、その論旨からしても彼の取り組みは内田研究室で継続的に取り組まれてきたB.E.(Building Element)論の応用にあたる、後期的展開としての1つの必然でもあったようである。論のなかで剣持は、B.E.自体の存在を人間の道具であり生活という目的のための手段とその必要に基づくものとした上で、その命題論理の先に新たに「人間の意図・利益」という指標を導入している。その指標によって開口部とは具体的には建築の内部空間と外部空間とを行き来する環境要素(作用因子とB.E.論では呼んでいる)を選択的に統御する部分(透過B.E.)とされている。その環境要素を具体的な空間の中でどう統御するのかという課題に対しては論文では触れられておらず、剣持は恐らく企業コンサルとしての製品開発への参画と、自らの設計活動の実践によってその課題に応えている。

剣持が設計したH邸においても風呂トイレを中央に集めた所謂コア・システムが小規模ながらに採用されている。居住空間は上階に浮び地上階には自動車も停められるピロティが配置されている。そのピロティには竣工直後に早速増築され、上階の居室空間も屋根の内側に納まって間仕切り壁の可動性と可変性を担保されていたその建築の代謝性は明らかに戦後日本が辿った当時の建築潮流の中に置くこともできるだろうが、そうした建築の内部での使い手の自由な行為を担保する建築生産におけるシステムの周到さを持った剣持とその他の建築家との間には大きな隔たりがある。

 

開口部を主たる問題として提示してみせたものとしては、剣持と同じく内田研に所属していた原広司の有孔体理論がある。原の有孔体理論も内田研のB.E.論からはじまる建築構成材に関わる命題を順々に解き進め、人間の役得としての制御装置としての開口部の在り方を考えようとした意図は剣持と全く変わらないが、原は集合の論理を導入することで実体の建築部品の考究には行かずにあくまでも抽象的な図式に留まった点においては剣持が進んだ方向とは真逆である。剣持のそれが部材同士の実際的な取り合いの要求からくるモジュールの設定とそのモジュールに基づいた部品生産システム内部への参画と改革であったのに対して、原の論理はあくまでも西欧的近代の美学を根拠とした丹下健三のシステム論の展開の類型であった。原や丹下をはじめとする当時の建築家の取り組みはあくまでも建築家という自我とシステムの無我の間を揺れ動く自身の創造の根拠を巡る構制とアイロニーの中にあり、特に丹下が目指した、近代の社会システムが標榜する民衆像の具現としてあらわれる自身の固有な存在価値は、あくまでもそのシステムの外部に位置づけられていたのである。

戦後日本の建築生産は大量生産化と標準化に向かい、殆ど全ての建築において現場ごとに品質に差異が現れる湿式工法は淘汰され乾式工法部材が採用された大局があるのは周知のものである。それ故に剣持の開口部の研究は、乾式工法が基本とされる生産市場を前提として、ガラスという材料性能分析とともにとりわけ壁や床といった遮蔽部品との建具・構成材の取り合い、納まりに基づく部材寸法規格の研究に特化したものであった。規格構成材という創造的単語からも分かるように、環境性能を規定するガラスとそれを保持する建具サッシを一体のものとしたスケールのユニット部品の流通を市場の中で推し進めた、工場生産と現場工事の両者を連続させる彼の特異な総体的視座があるし、また住宅のカタログ的販売形式の萌芽を剣持の総合的活動自体が表現していたとも言える(※1)。

とは言え、構成材の製造精度の限界を認識した上で、その隙間は最終的には現場のコーキングやシール材の埋め込み作業によってその誤差を修正・補正しようという「用意」とも呼べない用意を備えることを一般とする方式であることも見落とすわけにはいかない。そうしたささいな現実もまた間違いなく、彼の論文における「人間の個性とその尊厳を、物質的手段として技術の類型化・画一化を超越した、より高次の次元」における作業の1つに他ならないのである。

その呆気らかんとした、理論が現実へ着陸するその瞬間においてはやはり、工場生産システムの整備以上に、直轄直営方式に見られるような使い手となる生活者への人格的信頼と個々の建築現場に携わる地域生産力の存在が第一の根拠としてあったのではないかと考えてしまう。「バカチョン術」と呼ぶ現場での実践の形は、かつての江戸時代のような生き生きとした民衆像がその基底としてあったのではないか。江戸の人びとがだれでも自分の住居の間取りを考えられ、直接に町の大工を呼んで家を建ててもらったその町の風景である。西洋由来である「建築」、「建築家」の輸入によって一度は失いかけたその風景を、戦後日本の工業化によって、再びとりもどそうとする実践の有様であったのではなかろうか。

民衆、あるいは大衆をめぐる議論は、安保闘争や学生紛争をはじめとして戦後日本社会に常に横たわってきた。しかし、そんな幻像としての民衆に対して、剣持の一歩踏み込んでみせた実践は、当時にしてもノスタルジーとさえ思われかねない、けれども頑なに原理に則した、その微細な民衆像の粗型の探求であったのではなかろうか。H邸見学の際に聞いた、「この家は剣持君の”理論”だからね」と言いながら嬉しそうに建物の修理を続けていたというH邸の主人のエピソードや、今も修理しながら住み暮らす家族の元気な姿からも、それは垣間見えている。時代が巡り、建築生産における工業化の成熟を既に終えた今だからこそ、その工業化・標準化の熱気の中に確かにあった、剣持の民衆に対する健全な理想、アイロニーの無い浪漫主義的眼差しに大きな可能性を見出せるのである。戦後アメリカの大衆文化にも通じ得るポップな感覚で、けれども確かに個別の人間を眺めるその視線である。そうした知覚が大きなシステムの中に身を投じた人間の中にあったということが、現代において剣持がもち得る価値であろう。

 

(※1 現代の住宅市場においては、その一体のものとする販売スケールが建築部品を通り越して住宅単体、ないしは集合住宅自体にまで拡大されてしまったがために、商品の多様性において本質的にすでに限界を迎えていると感じる。けれどもその規格化されたスケールは、昨今の住宅供給過多と膨大な空家ストックの状況を見渡せば、逆に今となっては非常に「調理」し直しやすい素材で溢れ返っていると言えよう。戦後日本の住宅生産は結局鉄骨造ではなく、木造の在来工法が一般となったが、その規格寸法の凡庸さ=画一性は明らかにむしろ今後の創作的な可能性を高めてくれていると考えて良い。これもまた、剣持が描いた如くの「高次の次元における」人間活動の展開でもあるだろう。)

 

2014年7月18日
佐藤研吾