170123-24 Vadodara

170123
デザインの課題を発表する。「New Temple」というスタジオのテーマに対して、学生に課したのは「Temple Park」。対象とする寺院に近接した土地に、1 water body とgarden、1つのCare-taker(Priest含む)のための住居、Visitorが短期滞在する3つのホステル(ルーム)、そして幾つかのアーバンファニチャーの設計。
この複数の要件はさまざまな立場、寺院との、宗教とのさまざまな形での関係を持ち得る。実際の寺院ではこのような複数の異なる主体が複雑にかつ緩やかな関係を持って並存している。その端緒をまずは先週のスケッチ作業で感得して、それをデザインにディベロップしたいと思ってのこの課題。”Park”としたのは、寺院境内という長い歴史をもつその場所の形式を、近現代の都市空間、あるいは現代デザインへ接続させる緒を見つけるためだ。日本明治期の最初の公園は浅草寺境内の浅草公園であるが、そうした前近代の形式を保持しつつ、寺院を取り巻く社会システムの変容に伴って境内の人々の有り様も漸次的に変化していった史実を意識している。近代前近代の時代区分自体にはあまり価値を見出せないが周辺社会のシステムと空間が相互に関係し合って変化していくある種の時代の転換点(転形期)から学ぶことは多い。

昼前後、学生たちが案を描いて持って来る。できるだけ工夫を重ねてくれと突き返す。同時に思いつくかぎりの展開をこちらからイキナリ提案する。それに従うかどうかは学生それぞれの判断だがまずは判断材料が必要である。

170124
何人かの学生に参照すべき過去の建築の事例を伝える。そこでやはり浮かんでくるのはCorbusierの存在。特にグジャラートのこの場所はなおさらコルビュジェが遺したものは大きい。今どのようにコルビュジェがインドで需要されているのかは詳しくは知らないが、まずは知識が必要である。もっと古くにさかのぼることも必要かもしれないけれども、日本とインド(それに行ったことないけど南米)の近現代建築の共通するルーツの一つであるのは確かで、設計スタジオに参加するとそんな自分との共通項を探してみたくなる。そんな自分の課題も同時にこなす。
インドでデザインのスタジオをやってみると、自ずと彼ら学生が何を目指しているのか、あるいは目指すべきなのかを頭の中で考える。当然それは結局のところ学生個人の問題なので、自分は学生が今考えていることとは別種のあるいは別の次元の考えを伝える。自分はそれをきっかけとして、学生の個人性を超えて”Indianness”とは何かを考える。
先ほどのコルビュジェを近代建築の鏡として、あるいはインド近代建築の起源として見るのは多分あまり的を射ていない。むしろコルビュジェは「コルビュジェ」というインディビジュアルな存在としてその建築を眺めるべきなのではないか。そして彼の独自性に対してインドがなぜ呼応できたのか。考えたい。単なるサラヴァイ家の気質と資金だけではないと思う。今残っているコルビュジェのインドでの建築と、街中のガラクタの如き雑多な都市空間との間に共通して漂う何某かがあるのか。もっと突き詰めて考えてみたい。
古臭さ、汚さ、そして残酷さ。これらは包容という概念と結びついていると思う。コルビュジェがインドで遺したのは単なるブルータルなコンクリートの造形とテクスチャだけではない。半ば意図せずして、混沌を生み出すインドの都市の本質を表現していたのではないだろうか。そしてコルビュジェの弟子B.V.Doshiは決してインドと西欧=コルビュジェの接ぎ木ではなく、両者に通底する空間の資質を掴み取ったのではないか。